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宗大谷派主催
パネル展【高木顕明師の名誉回復に向けて】より抜粋

解説Ⅱ
「大逆事件」とは
「大逆事件」とは、1910(明治43)年5月、信州の社会主義者宮下太吉ら四名が、「爆発物取締罰則違反」で逮捕されたいわゆる「明科事件」に起こった、政府による、社会主義者、無政府主義者に対する、一大弾圧事件であります。
 この「明科事件」の逮捕者が社会主義者の中心人物である幸徳秋水と強いつながりを持った者であったことから、時の政府は、この事件を利用し、天皇暗殺の「一大陰謀事件」を捏造し、幸徳をはじめとする全国の社会主義者を一網打尽に抹殺しようと企んだのであります。その結果が、二六名が逮捕され、二四名に死刑判決が下されるという、「大逆事件」となったのであります。

 

顕明師の連座
 顕明師は、新宮の大石誠之助が東京で幸徳と行ったとされる、天皇暗殺の謀議を聞かされ、それに同意し、事あうば決起する決死の士たることを誓った者として逮捕されたのですが、それは全くの事実無根でありました。
そして、貧しい部落の人々からはお布施を貰えないといって習得したマッサージの技術も、「按摩」になった方が社会主義の宣伝に都合がよいから習ったのだというように、全くでたらめな調書が捏造されて、死刑判決に至ったのです。 
死刑判決の翌日、顕明師は他の11名とともに、「天皇の恩命」によるとする無期懲役に
減刑され、秋田監獄に収監されました。
そして、1914(大正3)年6月24日、たった一人で、失意の内に、無実の獄窓に自らの死を選んだのであります。享年50才でありました。
 顕明師に、あなたは天皇暗殺計画を謀議したのか、あなたは一体何をやったのかと問うなら、師は、私の預かる寺のご門徒と一緒に、親鸞の教えに頷き生きていきたかったのだ。差別も戦争もない世の中にしたかっただけだと答えるでありましょう。
 その顕明師を大谷派は判決と同時に「擯斥」に処し、教団から抹殺したのであります。

 

大谷派の「擯斥」処分
大谷派は、顕明師の逮捕後、判決が下されるまでに師を住職「差免」とし、死刑判決が下されたのと同日付けで、当時の「宗制寺法」で定められた最も重い罰則である「擯斥」に処
しています。
さらに派内に対しては、処分に連動して諭達や諭告が発せられております。
それは、顕明師のような「逆徒」が二度と大谷派から生まれないようにと諭すために出されたものであり、国家権力と歩調をあわせ、その維持を図ってきた当時の教団の姿を如実に語っているといえます。


大逆罪とは
 大逆罪とは、旧刑法の第七十三粂に 「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又は皇太孫二対シ危害ヲ加へ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑二処ス」と規定されたものである。
この大逆罪が適用される事件は大審院(現在の最高裁判所)において
「第一審ニシテ終審」とされた。
旧刑法「第七十三条』(『旧刑法』)

 

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