淨泉寺案内
真宗大谷派
淨泉寺


2025年遠松忌法要 ご案内
淨泉寺12代住職髙木顕明師は先の大戦にあたり、「極楽世界には他方之国土を侵害したと云ふ事も聞かねば、義の為に大戦争を起こしたと云ふ事も一切聞れた事はない。依て余は非開戦論者である。戦争は極楽の分人の成す事で無いと思ふて居る。」(「余が社会主義」)と
非戦の立場を貫き、御門徒との交わりの中で、言われなき差別や貧困に苦しむ方々の現状にふれ、平等と解放を訴えました。 何時までも平和な世界を願ってやみません
本年は火曜日です。お間違いなきようお参りください。
法要日時 6月24日(火)
AМ10時~ 顕彰碑前勤行 南谷墓地にて
PМ13時~ 遠松忌法要 淨泉寺本堂にて
PМ13時半~記念法話 講師 鶴見 晃氏(同朋大学教授)
PМ15時~ 交流会
PМ17時 終了
B)原因が逆さまに見える。(顛倒(てんとう)の見)
苦しみの原因が、逆さまに見えるとはどういう意味かといいますと、それは、
苦しみの原因を自分以外の他にあると思いこむ、責任の転嫁(てんか)を意味しています。
責任の転嫁とは、わかりやすく言いますと、
子供が前を見ずに走っていて、突然柱に頭をぶつけたとします。その時、親が泣き叫ぶ子供を抱えて、
「オーオー痛かったねー。ここか、柱のここで打ったのか、本当にこの柱は悪いねージャー、柱を叱ってやるからね。」と柱をボンボンと叩いているのを見かけることがありますが、これをいうのです。
柱は動きません。そこに立っているだけです。子供が頭をぶつけて痛いのは、どこに原因があるかと言えば、子供が前を見ずに走ったことにあるのです。悪いのは前を見ずに走った子供自身が悪いのです。
原因は子供にある。それを柱がそこに立っていたから柱が悪いのだと言わんばかりです。一見、笑い話しみたいですが、これを責任の転嫁、あるいは顛倒の見というのです。これらは、総て、邪見の為せる業です。
人間は、誰でも、【見取見((けんしゅけん)】といって、自分が一番可愛く又自分が一番正しいと思っています。
「私は、自分が一番正しいとは考えていません。」と、あるいは言われるかも知れませんが、その見方で見ている証拠に、人を批判しますし、評価もし、又人と喧嘩(けんか)もします。
夫婦喧嘩にしても、お互いが、自分の言い分は、正しいという所から起こります。どちらか一方が(自分の考えは、間違っている。相手の方が正しいようだ。)と認めれば、喧嘩になりません。
又さらに、この見取見には、【身びいき】とでも言いましょうか、自分の愛する者、近い者、(主人、子供、兄弟、…)ほど、可愛いという思いがあります。他人の子供も同じ様に愛せよと言われても、やはり、自分の子供が一番可愛いですし、子供同士が喧嘩をしていると、自分の子供に加勢しようという気持ちが起って来るのもそうですし、何時もは喧嘩をしている兄弟でも、いざ他人と喧嘩にでもなれば、兄弟をかばい助け合うのもこの見取見から起こります。
さらに邪見には、【戒禁取見((かいごんしゅけん)】という見方があります。これは自分のしている事が一番正しいと思う考え方です。
宗教の世界でも、本来の目的は、総ての人間が幸福になることなのに、その方法において、お互いが、自分達のやり方、教えが最高であると主張し合い、罵りあい、いがみ合い、ひどくなれば戦争をして殺し合うということが起こるのも、この心から起こるのです。
見取見、戒禁取見という邪見の見方が、苦しみの原因を他の物に思わせ(惑(わく))、その苦しみから逃れるため(業(ごう))ますます(苦(く)) に落ちいってしまうというのです。
では、どのような責任の転嫁により苦しんでいるのでしょうか。
【第一】相手や、相手をとりまく友達や世の中の責任とする。
【第二】目に見えない物の責任とする。
【第三】霊的な物の責任とする。
【第一】苦しみの原因を相手や相手をとりまく友達や世の中の責任とする】
例えば、夫婦の間が経済的にうまくいっていない生活苦の時を考えてみましょう。
奥さんは考えます。(なぜ、私の家庭はこんなに生活が苦しんだろうか、私は家のやりくりを一生懸命しているから私の責任じゃない。(見取見)
では、だれが悪いのか、‥‥そうだ‥‥主人の稼ぎが少ないからだ。
稼ぎが少ないのに、酒は飲む。パチンコには行く。主人が金を使い過ぎるからだ。となります。
主人は主人で、自分が正しいと思っていますから、(俺が汗水流して働いているのに、家内のやりくりが悪いから生活が楽にならないのだ。)と考えます。そうやって、お互いが相手の責任にし合うのです。
又、相手をとりまく友達や、世の中の責任とする考えも同じです。自分が可愛いように、主人も子供も近い者程可愛いいと言いましたが、その考えから、家の生活が苦しいのは、主人を飲みに誘いに来る友達が悪いと考えたり、主人が一生懸命働いても、給料を沢山くれない会社が悪いのだ。しかし、会社が多く給料をくれないのは、世の中が不景気だからだ。それはとりもなおさず、国の政治が悪いからと、苦の原因をどんどん遠くへやってしまって、ますます原因がわからず苦しむことになります。
【第二、目に見えないものの責任とする】
例えば、家に不幸が続いていますと、家相が悪いから、墓相が悪いから、友引だから‥‥と人に言われると、
人間は弱いですから、方向とか、日の良し悪しで、苦しみが起きるのだと考え始めます。その苦しみの原因を取り除くために、お祓いや、お祈りが生まれてきます。迷信と名のつくものは、ほとんどこんな所から生まれて来るのです。本当に正しいなら、何時、いかなる所でも、同じでなくてはなりません。ここで、正しければ、アメリカへ行っても正しい。インドヘ行っても正しい。 エジプトへ行っても正しい。というものでなければなりません。
【墓相(ぼそう)】について考えてみましても、 アメリカヘ行けば十字架や四角の形の墓になりますし、沖縄では、亀の甲羅を伏せたような形 (亀甲(きっこう)墓(ばか))です。人間は母の子宮から生まれ、 亡くなれば子宮へ帰ると人間の子宮をあらわしたものです。インドへ行けば、ガンジス川で 死体を焼いた後、総ての灰を、ガンジスの川へ流してしまいます。先日、ガンジー首相が暗殺されましたが、尊い方でも、死体を焼いた後に、ヒマラヤの山に総ての灰を撒きました。
ヒマラヤ山も、ガンジス川も、聖地であり、その聖なる地へ、総て戻してやることが、 最高と考えるのです。その為、墓を持ちません。又、ネパールヘ行きますと、今でも鳥葬(ちょうそう)といって、死体を鳥に食べさせてしまう所もあります。骨まで砕いて、総てが天に帰って行くのです。あとには、何も残らないといいます。
このように墓を持たない所もあるのです。日本でも昔は、貴い人でも、石ころ一つですませた時代もありました。
勿論、墓などいらないと言っているのではありません。日本人は、先祖の墓を守ることにより、親族が同じ心でまとまり助け合って来たのですから、墓を建て祭ることは尊い事だと思います。
ただこのように墓の形に造らなければ、又、この方向に建てなければ、災いが起こると、ことさら、墓の相を決めて怯えるのは悲しいと言っているのです。
以前、檀家宅(だんかたく)で、年忌を勤めておりましたら、名古屋から来られた方が、新宮に出て来て働いておられる弟さんに、「お前も、新宮へ骨を埋めるつもりなら、この地へ、墓を持たんといかん。しかし、墓を持つ条件がある。「第一には、先祖より高い所へ墓を造ってはいけない。
第二には、先祖より大きくしてはいけない。‥‥云々」そう言っているのです。
しばらくしましたら、弟さんがこちらへ来られて、
「この新宮では、お墓は造れません。お寺には納骨堂があると以前聞きましたが、私が死んだら、その納骨堂へ入れてもらえますか。」と言うのです。「なぜですか」と聞きますと、
「お寺さんも、今、兄が話すのを聞いておられたでしょうが、兄の言うように先祖の墓より小さくする事はできますが、先祖より低い所へは、墓を建てることが出来ないのです。」と言われるのです。
「なぜならば、名古屋の実家の墓は、海抜ゼロメーターの所にあるのです。
その為に、それより低い所といえば、海の中ということになります。そんな所、どれだけ捜してもありません。そこで、お墓は造れんなと、思うのです。」といわれるのです。
笑話のようですが、こんな事を真剣に考えている人が多いのではないでしょうか。
先祖の墓より小さくし、低い所へ造るという考えは、今日の私があるのは、親先祖のお陰であると感謝する心か ら一段さがって建てるという考えから出たのでしょうが、そうしないと、災いが起こると考えるのは、悲しい思いがいたします。
※ では、仏教では、方向とか、日の良し悪しについて、どのように考えているのでしょうか。
【般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)】に、
「是の三昧(さんまい)の聞きて、学ばんと欲(おも)わん者は、自から仏に帰命し、法に帰命し、比丘(びく)僧に帰命せよ、余道に事(つか)うることをえざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祀ることをえざれ、吉良(きちりょう)日(じつ)を視(み)ることをえざれ。」と説かれています。
又、『涅槃経(ねはんぎょう)』には、
「如来法中(にょらいほうちゅう)、無有(むう)選択(せんじゃく)、吉日(きちじつ)良(りょう)辰(しん)。」と説かれています。
仏様の慈悲の働きの中で生活しているものは、良い日、悪い日を選んではいけない。と、はっきり説かれています。
ある時、お釈迦様は、お弟子に、「食をなすのに、悪い食べかた(邪(じゃ)命食(みょうじき))が四つある。」と言われました。「何が悪い食べ方ですか」とお聞きいたしますと、
【第一には、仰口食(おうこうじき)】
【第二には、下口食(げくじき)】
【第三には、方口食(ほうこうじき)】
【第四には、維口食(いくじき)】であると教えます。
第一の、仰口食とは、どのような生き方かと言いますと、口を上にして食をなす事である。
とあらわされているように、インドでは、昔から星占いが盛んで、この星占いをして生活をすることを意味します。星の動きや位置で、自分の幸不幸を見るのです。人間は生まれた時から死ぬまで、総てこの星の動きで決まっていると考える生き方です。もし、人の一生が生まれた時から決っているのなら、努力することは、無駄になります。自分だけがそう信じているだけならまだいいのでしょうが、他人に言うことで恐怖を与えたり、その人の一生を惑わすとしたら、これほどひどい事はありません。
第二の、下口食とは、どのような生活かと言いますと、犬や描の食べ方を考えてみてください。
四つん這いになり、食べている姿です。勿論、 犬や描の食べ方が悪いというのではないのです。それは、畜生(ちくしょう)の心、そう弱肉強食の生き方を言っているのです。相手が弱いと見たら泣こうが喚(わめ)こうが、食いものにしていく、裏切り、 蹴落としてでも、上にのしあがろうとする。そういう生き方は卑しいというのです。
第三の、方口食とは、その時その時の権力者に、こびへつらう生き方を言います。
第四の、維口食とは、方向見や占いをして食をなすことで、他人や自分の人生を誤らす悲しい生き方であると教えます。日の良し悪し(よしあし)を言い、良い方向や悪い方向を教えるのが、仏教であるぐらいに思っている人も多いようですが、何処を捜しても、そのような教えはありません。むしろ仏教では、そのようなものに心を惑わされて、恐れる生活をしてはいけないと教えます。
