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浄泉寺沿革
元和五年従五位水野出雲守源重仲公(徳川家康公の生母伝通院の弟藤次郎仲分公三男)遠州浜松城より新宮城へお国替に当たり浜松普法山善照寺別院住職小幡玄祐大僧正(僧名尊海上人)を同伴せられ当寺を建立し遠州浜松の地名をとり遠松山浄泉寺と名づけられ城主水野家よりは、代々菩提寺同等の待遇が与えられていた。
今も水野出雲守源重仲公、及び 淡州大守源良達公等の位牌が祠られている。
本堂屋根の正面に城主水野家の家紋がつけられているのもその為である。
     新宮史誌及熊野風土記より

 

旧本堂 内陣

元和5年より幾度もの災害を免れて昭49年迄約400年間近く時代の変貌を眺めていた。
大逆事件当時の浄泉寺の本堂の姿である

大正初期の新宮の町上の赤い所の寺院が浄泉寺
右上に新宮城(丹鶴城) [緑の所]、
左上が新宮熊野大社 青色の所が見える。
現在、浄泉寺の前を国道四十二号線が通り、

熊野川を渡り三重県へと続いている。
現在も、道路は上の地図と殆ど変わっていない。

右  初代当主水野重央公(みずの しげなか

  全龍院殿前雲州太守日山常春大居士

 

左 第4代当主水野 重期(みずの しげき、)  和泉院殿前淡州太守静山日體大居士

  安置されている

昔(上の写真)の浄泉寺本堂の鬼瓦

5月 境内の花 

 色々なアジサイとサツキが綺麗に咲いています。

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