淨泉寺案内
真宗大谷派
淨泉寺


2025年遠松忌法要 ご案内
淨泉寺12代住職髙木顕明師は先の大戦にあたり、「極楽世界には他方之国土を侵害したと云ふ事も聞かねば、義の為に大戦争を起こしたと云ふ事も一切聞れた事はない。依て余は非開戦論者である。戦争は極楽の分人の成す事で無いと思ふて居る。」(「余が社会主義」)と
非戦の立場を貫き、御門徒との交わりの中で、言われなき差別や貧困に苦しむ方々の現状にふれ、平等と解放を訴えました。 何時までも平和な世界を願ってやみません
本年は火曜日です。お間違いなきようお参りください。
法要日時 6月24日(火)
AМ10時~ 顕彰碑前勤行 南谷墓地にて
PМ13時~ 遠松忌法要 淨泉寺本堂にて
PМ13時半~記念法話 講師 鶴見 晃氏(同朋大学教授)
PМ15時~ 交流会
PМ17時 終了
( 幸福を求めて 下巻 はじめに )
この本は、昭和六十年から六十二年度にかけて浄泉寺同朋会において、お話した事をもとに作成したものです。文章にし、我が身に引き当てながら読み返してみますと、常に自分自身を見詰め、法を求めているかのごとく書かれていますが、実際は、忙しさにかまけて生活に流されている自分自身を見出し、今更ながら身の置場の無い程の恥ずかしさを痛感しております。
しかし、ここに表わしたことは私の信ずるところの信仰であり、私の信念と言っても良いと思います。
親鸞聖人のお書きになられた『愚禿悲嘆述懐』に
「五濁増(ごじょくぞう)のしるしには、 この世の道俗(どうぞく)ことごとく
外(げ)儀(ぎ)は仏教のすがたにて 内心外道を帰(き)敬(きょう)せり」
「かなしきかなや道俗の 良(りょう)時(じ)吉日(きちじつ)えらばしめ
天神地砥(てんじんちぎ)をあがめつつ ト(ぼく)占(せん)祭祀(さいし)つとめとす。
【意訳】
(世の中が乱れてくると、僧侶も一般の者も、外目は仏の教えを信じているかのように振る舞っているが、内心では仏の教えとは全く懸け離れた信仰をし始める。
『般舟三昧経』には「天を拝することを得ざれ、鬼神を祭ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ。」と、又『涅槃経』にも「如来法中、無有選択、吉日良辰」とはっきりお示しに成られているにもかかわらず、日の善し悪しを選んだり、自分の欲を叶えてもらうためにいろいろな神々に祈ったり、占いをして生きている。
悲しいことである。)という言葉が有ります。
五濁とは、世の中の乱れた様子をいいます。 『阿弥陀経』に、五濁とは
「功濁 見濁 煩悩濁 衆生濁 命濁」と示されています。
「功濁(こうじょく)」とは、時代が乱れることをいいます。
この乱れた時代になると、人々は、仏の法を自分の都合の良いように解釈をして、法は曲げられ、あるいは、仏教を利用し、多くの宗教が生まれてくるといいます。
「見濁(けんじょく)」とは、人間の見識、考え方が乱れることをいいます。
人々は利己的で、自分だけが良ければ良いという考えや、自分が一番正しいという考え方が強くなることをいいます。
「煩悩濁(ぼんのうじょく)」とは、 人々は欲望のとりことなり、より美しい物を、より贅沢な物を好み、争いを繰返し、勝った者はおごり、負けたものはひがみ、「欲しい」「惜しい」「憎、」「可愛い」 「嫉み」「妬み」という煩悩が段々酷(ひど)くなることをいいます。
「衆生濁(しゅじょうじょく)」とは、人間の身体が弱くなることをいいます。
現在は、文明の発達により、人々の生活は便利に成りました。 その反面多くの工場が生まれ、大気を汚染し、また、自然が破壊されています。其の中で人々も自動車など多くの交通機関にたより歩かなくなり、身体も虚弱化しています。アレルギーや、水俣病、現在では、不治の病といわれるエイズというような多く
の新しい病気が生まれています。
「命濁(みょうじょく)」とは、命を粗末にする事を言います。
そのように乱れた時代にあって、人々を幸福に導くはずの宗教が、人々の恐怖心につけこみ「先祖の霊が迷っている。」とか、「水子が祟っている。」と脅し、除霊や供養の名のもとに多額の金を巻き上げたり、多宝塔や壷を売りつける霊感商法がはびこったり、老後のために蓄えた金を、甘い言葉で巧みに近づき、取り上げてしまう豊田(とよた)商事(しょうじ)事件(じけん)など、一つ一つ考えてみますと、まさに現在は、五濁増の時代と言えるでしょう。
そんな時代に生きていればこそ、今一度静かに仏様の教えに耳を傾けて自分自身を
見詰めてみる必要が有るのではないでしょうか。
(この本は、昭和六十三年一月二十日より二十回にわたり紀南新聞に連載されたものです。)
子供は 親の姿を見て育ちます
『オオカミ少女』、そんな言葉を一度は耳にしたことがあるでしょう。いいえ、漫画の話ではありません。
(昭和六十年十月六日)サンケイ新聞(サンケイ抄)に
「洞穴から人間界に連れ戻された後も四つん這いではいまわり、夜になれば月に向かって吠えた。言葉はほんの少ししか覚えられず、ついに人間になれなかった」
というオオカミ少女に関する記事が載りました。事実、オオカミに育てられた少女がいたのです。
私が、その記録の本を見たのは中学生の時だったと思います。本の初めに載せられていた、四つん這いになり、歯を剥き出しにして睨み付けている写真を、今もはっきり覚えています。
不慮の事故で両親を亡くしたか、あるいは迷子になったのか、とにかくなんらかの原因で赤ん坊のころに狼に育てられたのです。そのため、身体は人間であっても四つん這いで歩き、歯は異常に強く、勿論人間の言葉はしゃべれません。性格は凶暴で、狼そのものであったといいます。
最近は、多くの家庭でペットが飼われています。私の家にも猫が一匹いますが、
どうでしょう、「赤ん坊の時から長い間猫を飼っていたら、最近では人間のように話もするし、新聞を読んで、人生について悩んでいるんです…。」などという話は、一向に聞きません。
動物は、どれだけ長く人間の社会で育っても、人間にはなりません。
しかし人間は、動物の社会で育てばその動物のようになる。そう、狼の社会で育てば、狼にもなりうるということです。
人間の子供は、元来持って生まれた性格や能力もありますが、
両親の育て方や、環境によってどのような人間にでも育つということです。
ある人が、「子供は、親の言う通りにはならない。親のしていたとおりのことをする。」と言われましたが、まさに、子供を狼のように育てるのも、人間として育てるのも、親の育て方にあります。
もう、数年以上前になりますが、新聞に、「京都の岡崎動物園で、一匹のゴリラが生まれました。しかし困った事に、母親ゴリラが、赤ちゃんゴリラを抱きかかえ、あやしはするのですが、一向にお乳を与えようとしない。このままでは死んでしまう。」という記事が載りました。それからまた数日が過ぎて、
「母親ゴリラが、一向に赤ちゃんゴリラにお乳を与えようとしないので、飼育係の人が哺乳瓶で育てている。なぜ、お乳を与えないのか調べたところ、なんとこの母ゴリラも、赤ん坊の時、生まれて直ぐ母親に死なれ、やむなく飼育係の人に哺乳瓶で育てられたという事が分かりました。」という記事が載りました。
この母ゴリラは、自分の母親からお乳を飲ませてもらったことが無かったのです。そのため、お乳を子供に与える事を知らなかったのです。動物がお乳を子供に与えることは、本能であると思われています。
しかし、この事実を考えると親の肌を通じて初めて身に受けていくのかも知れません。
一時、お乳を子供に与えると、お乳の形が悪くなるとお乳を与えなかった母親が沢山いましたが、その子供達が大きくなったとき、子供に同じことをするのではないか、それは同時に愛情さえ与えないのではないかと、恐ろしい気がいたします。
子供は、親のコピーです
「うちの子供は、なぜ挨拶も出来ないのかしら」そう愚痴を零す親がいますが、自分の家庭を考えて見て下さい。その子供が物心付いた時に、おそらくその家庭では、「おはよう。」 「ありがとう。」そういう挨拶が為されていなかったのではないでしょうか。
ある本にこう書かれてありました。
「良い子を育てようと思えば、夫婦がお互い優しく尽くしあっていると優しい子。ユーモアのある家庭では明るい子。一生懸命働いていると頑張る子が育つし、信仰心が厚く、お互い感謝しあっている家庭では素直で温かい心の子が育ちます。
その逆に何時も夫婦がお互い責任を擦り付けあっていると、強情な子。人を当てにばかりしている家庭では、無気力な子。甘やかしてばかりいると、我が侭な子。何時も不貞腐れて、焼けっぱちなことばかりしている家庭では、反抗的な子が育つ」というのです。
昔から、「信仰のある家庭に仏が育ち、信仰の無い家庭に鬼が育つ」といいます。
家に、仏壇や神棚があって、それを信仰し、拝みあい、感謝しあって生活している。そんな姿を見て子供が育つと、知らず知らずの内に、心のなかに、温かい心(仏の心)が植え付けられてくるのです。
ある新聞社が、網走刑務所に入所している人達は、いったいどのような家庭環境で育ったのか、調査したことが有りました。
そこで、「小さい頃、家庭に仏壇か神棚が有って、お祖父さんお祖母さん、あるいは両親が、合掌している姿を見たことが有りますか?」というアンケートを取ってみました。
すると驚くことに、九割近い人が、一度も見た事が無い。と、答えたそうです。
〈家庭内で、お祖父さんお祖母さん、並びに両親に信仰の心が有って。感謝しあっている環境)がいかに大事なことか考えさせられます。
中国の孔子の教えに 『衣食(いしょく)足りて礼節(れいせつ)を知る』というのが有ります。衣食とは衣服と食物ということですから、生活という意味です。即ち生活が満たされたなら、人間は礼節を知らねばならないということです。
では、礼節とはどの様な意味でしょうか、『礼節』とは、礼儀と節度ということです。
「礼」とは、元々、神様の前に額(ぬか)づき、供え物を捧げるという意味です。
故に「礼儀」とは敬い慎む心を表わした言葉です。又、相手を敬い心から頭が下がることは、こちらの方が偉いと思っていたのでは頭は下がりません。故に自分自身を知り、恥ずかしさを知るという意味も含まれています。
そこで、「礼儀」とは、生かされていることを感謝し、恥ずかしい身と自己を知ることです。
『節度』とは、きまりとか規則という意味ですが むしろ「節制」と言う方が理解できるかも知れません。よく「節制しなさい」と言いますが、程良くして度をこさないことです。それは、満足することです。
故に生活が満たされたら、人間は感謝する心と、自己を見詰め恥じる心と、満足する心を持たねばなりません。
