南岳磨磚】
中国の唐の時代に、南岳懐譲という高僧の元へ、若い僧が訪ねてきて、修行し悟りを得たいと指導を請いました。そこで、和尚は、「ではそこに座りなさい」と言い残して外へ出て行かれました。
しばらくその若い僧は、和尚の仰せの通り座禅を組んでおりました。
すると和尚は、何処からか一枚の瓦を持って来て、其の僧の横に座り、一生懸命瓦を磨き始めました。
若い僧は、目を半眼にして、無念無想に座っていたのですが、和尚の様子が気になって修行どころではありません。堪り兼ねて、
「和尚様は、一体何をしているのですか?」と尋ねました。
すると、「いや、瓦を磨いて、鏡にしょうとしているのだよ。」 と答えます。
それを聞いて若い僧は思いました。(高僧と話には聞いていたけれどもおかしなことをいう。)そこで、
若い僧は、「和尚様、それは無理な事でございます。瓦はどれだけ磨いても鏡には成りません。」と言います。
それを聞かれた和尚はにこりと微笑みながら、
「そうかい……。それが分かっていて何故座禅をして仏に成ろうとする。
座禅をしても仏には成れない。瓦のような心、それが私の心であり、お前の心である。」と言われます。
その言葉で、若い僧は悟を開いたと言います。
この若い僧こそ、馬祖道一その人であります。
この話は、座禅という方法に捕らわれていたのでは、本当の禅の心(仏の心)は理解出来ないということを表したものですが、同時に私達の心をも指摘しているのです。
その瓦のような私、善も成せず悪しか成しえない私、口では浄土へ生まれたいと言うにもかかわらず、未だ行ったことの無い浄土よりも、この苦しみの娑婆が懐かしく、行いは悪しか成せず、罪ばかり重ねながら、地獄へ地獄への生活をしているのが私の姿ではないでしょうか。
★では、もう少し自分を深く掘り下げて見詰める事にしましょう。
そうすれば、人に向かって「あの人は殺人者である〕とか、「あの人は保険金目当てに妻や子供を手にかけた鬼のような人間である」と罵り、自分は其のような恐ろしい人間ではないと、うそぶいていた私が、
いや、私も同じ鬼のような心を持った人間であり、何時なん時そのような罪を犯すかも知れないのが私の姿でありますと見えて参ります。
過日も、テレビを見ていると、若い主婦が主人を殺してしまったという事件が報道されていました。
どの様な経緯でそう成ったのかは知りません。これは私が勝手に造る話ですから、この事件の内容とは一切関係有りませんが、例えば、商売でもしていて、そこへ若い女店員を雇うとしましょう。
仕事で雇ったのですから、店で販売するだけではなく、時には配達にもでかけるでしょう。
旦那さんと若い女店員とが配達にでかける。そんな様子を近所の御節介なおばさんが見ていて、奥さんに
「最近御宅の旦那さんよく若い女店員と自動車で配達にでかけているけれど、注意しなさいよ、
何か旦那さん、若い店員に気があるんじゃないかって近所で評判ですよ」と告げ口をする。
そう言われますと、口では、「そんな事有りませんよ。」と言っても、内心段々心配になってきます。
幾ら信じているといっても、愛していればいるほど嫉妬の心から愚痴もでて参ります。
心の中に不安が大きく膨らんで来た頃、外へ用事にでも出ていて、早く用事を済ませたものですから、
偶々早く店へ戻ってみると、店の中に主人も店員もいない一体何処へ行ったのかと奥へ入ってみると
台所で二人がお茶を飲みながら親しげに話をしている。その様子を見て、人の噂していることが本当ではないかと疑い始めます。
やがてふとした事から、夫婦喧嘩でも始めますと、気が動転しているものですから、
「貴方、最近店員と浮気しているって近所の人が言っていますよ。」と、
すると旦那さんもそんな事を言われて面白くない。
「馬鹿なことを言うな。」と、しかし、否定すればするほど逆に思えてくるものです。
奥さんが続いていやな事を言う、しまいに旦那も怒りだし、口で言っても止めんものですから、暴力でその言葉を止めようとします。一発二発と殴るうちに、奥さんは台所へと逃げ出す。気も動転しているものですから、偶々手にした包丁を旦那さんに向けて身構える。それを見て旦那は余計逆上し、
「おれを突くつもりか、突けるものなら突いてみよ。」と奥さんの持った包丁をぐっと自分の方へ引っ張る。そのはずみで、縺れあって倒れる。気が付いてみると主人を殺してしまっていた。……
『歎異抄』(十三章)に、こんな事が書かれています。
或る時、親鸞聖人が唯円坊というお弟子さんに、
「今、浄土に生まれる最善の方法を教えようと思うが、唯円坊、私の言う事を信じますか?
又、言う通りにしますか」と、尋ねます。
唯円坊は、命を賭けて親鸞聖人にお仕えしてきたのですから、
「勿論、師の仰せられる事ならば、何でも信じ其の様にいたします。」と、答えます。
浄土へ生まれる最善の方法を聖人が私にお示しになる。一言一句も聞き漏らさじと、固唾を飲んで聞き入っていますと、
「それならば千人の人間を殺してきなさい。そうすれば、浄土に往生することは間違い有りません。」
と言われます。
それを聞いて、唯円坊は驚かれたでしょうね、
「‥‥‥とてもじゃございません。千人どころか、一人の人間も殺せそうに有りません。」と答えます。
すると、聖人は、「其の通りであろう。自分の思う通りに良い事も悪い事も出来るならば、浄土へ生まれることが今の貴方の目的なのですから、思いのままに人を殺すこともできるでしょう。
しかし、自分の思う通りには行かないでしょう。
それは、貴方が善人だから、人を殺せないと言うのではありません。
又、幾ら人を殺めないでいよう、悪い事はしないでおこうと思っていても、何時なんどき、
百人千人の人を殺すかも知れません。そういう業縁が起こればどのような振舞をするか分かりません。
それが貴方の姿であり、私の姿なのです。」と言われます。
この主人を殺した若い奥さんも、よもや結婚したときには、愛する主人を殺すことになるなどとは
思ってもいなかったはずです。
しかし、『さるべき業縁が催せば如何なる振る舞いもすべし』と、聖人の言葉のように、
幾ら悪いと言ったって殺人を犯すほど私は悪いことはしません。と言っていても、
そうなるべき原因と、条件が揃えば愛する主人でさえ殺しかねないのが私の本当の姿なのです。
自動車で走っていますと、人を轢き殺そうなどとは考えませんが、車の前に急に飛び出して来れば、
殺人者に成るかも知れません。
先日、あるお宅を訪ねますと、
真新しい白木の位牌が目に付きました。飾られている写真を見ますと、五十代 半ばでしょうか。
「旦那さんですか、若くして亡くなられたのですね、病気だったのですか」と尋ねますと、
「主人は大工だったのですが、先日主人の作った家の完成祝に招待されて、深酒をしすぎたのでしょう。酔って、家へ帰る途中川へ落ちて、溺れて死んでしまったのです」と涙ながらに語ってくれました。
その言葉の後で、
「せめて死ぬのだったら、仕事中に死んでくれたら保険金ももっと入ったのですが、
仕事の終った後だったものですから、わずかの保険金しか入らなかったのです。
子供をこれから一人前にしていかなければならないのに……」と愚痴を零しておられました。
この言葉は奥さんの本音だと思います。
この話を檀家のある人に話しますと、その方も
「お寺さん恥ずかしいですが、私も其の通りです。先日、夕食の後、お風呂へ入ってくつろごうとした時、突然、家内が、心臓が苦しいと訴え始めました。大変なことに成ったと救急車を呼び、病院へ運び込みました。妻に付きそって病院へ行く途中、「大丈夫か、しつかりせよ。」と、妻の手を握りしめながら、
私の頭をこんな思いが過ぎりました。
(今死なれたら困るな、葬式代もいるし、娘も結婚させないかんし、老後のこともある。
もっと大きな保険に加入しておけば良かった....。)
幸いに、奥さんも大事なく済んだのですが、帰宅してから、自分の部屋で、一人きりになって、
今日有ったことを考えていると、ふと自分の恐ろしい根性に気付きました。
「家内が、死ぬか生きるかの瀬戸際で苦しんでいる時に、保険金のことを考えていた。
自分はなんと恐ろしい根性を持っているのだろうか、そう思うと恥ずかしさで涙が止まりませんでした。」
と、話してくれました。
(普段から妻に保険をかけて殺して金にしようなどと考える人はまずいないでしょうが、
ふとした刹那に、口では「しっかりせよ」といいながら、心の中で金の勘定をしだす。
さるべき業縁がそのような一念の中におこるのでしょう。
ふとした一念の中に、命を金で計算するような心を我もあなたも持っているのです。)
これが私の本当の姿なのです。
善悪を知っているし、何時でも良いことが出来るぐらいに考えているけれども、
純粋に善を成すことは難しく、仮りに善を成しても、後で悪に変えてしまうような毒の混じった善なのです。
そうなる原因と条件とが揃ったらどのような悪い事をするか分からない私であることが見えて参ります。
しかし、自分の愚かさに気付くだけで終わるのならば、余りにも暗く、悲観的で、絶望的でさえあると思うでしょう。
しかし、このような自分の真の姿に出会って、始めて気付くことが有ります。
其れは、このように愚かな私が、自分の真の姿に気付けたという不思議さです。
自分が一番正しいと思っていた私が、悪い事の原因は、直ぐ他にあると、責任転嫁をして
自分に原因があるなどとはとても孝えも及ばなかった私が、今、総ての苦しみの原因は私の生き方にあり、私の愚かさにあったのだと気付くことが不思議なのです。
其のような考えは、凡夫の智慧では出てこないものです。
私の真の姿を知ることが出来たのは、私の力ではなく、何か大きな力、
自己を知れよと働きかけて下さる力(光)を感じます。そこに仏様を見るのです。
阿弥陀如来の智慧の働きかけによって初めて知ることか出来たのであると知り、
又信じることが出来るのです。
さらに、「束縛の業を持ちける身」と地獄に行く以外無いと泣いていた私を
「心配無いぞ、地獄へ落ちる以外無いわが身と知らせたのもこの弥陀であり、
その地獄一定の姿其のままに救うと誓をたて、働きかけたのも弥陀である。」と呼んで下さる、
量ることの出来ない大きな慈悲の働きかけに気付き、
涙の中から親様に抱かれて救われて行ける幸せ者と立ち上がっていく。
そこに初めて仏様との出会いがあるのです。
親鸞聖人のお書きになられた『御和讃』に
「超日月光のこの身には 念仏三昧おしえしむ
十方の如来は衆生を 一子のごとく憐念す。
子の母を思うごとくにて 衆生仏を憶すれば
現前到来とおからず 如来を拝見うたがわず。」 と、著されています。
十方の如来が私を一人子のように思い、憐れみ愛しんで下される念力(慈悲と智慧)を私に掛けられていたからこそ、私は恥ずかしい者でありましたと気付くことが出来たのです。
丁度其れは、私が母親の体内に宿ったときから、親は私を愛し、「幸福になって欲しい」
と念じ続けていればこそ、子供が大きくなって、初めて親の愛情に気付くのに似ています。
これを「たまわった信心」と言うのです。
子供が親の愛情に気付くずっと以前から、親は私を呼び詰めに呼んで下さっているのです。
其の思いに呼び覚まされて、私が親の愛情に気付いて、親なればこそと思うとき、親の喜びはいかばかりでしょうか。それをさらに、
「子の母を思うがごとくにて衆生仏を憶すれば、現前到来とおからず、如来を拝見うたがわず。」
と著されているのです。
【信 心】
賜った信心
『御文』(大一帖目末))
「信心といえる二字をば、まことの心とよめるなり。
まことの心と言うは、行者の悪き自力の心にてはたすからず。
如来の他力の心にてたすかるが故に、まことの心と申すなり。」
又『最要鈔』に、
「信心をまことの心とよむうえは、
凡夫の迷心にはあらず、まったく仏心なり。
この仏心を凡夫にさずけしめたもうた時、信心とはいわるるなり。」と著されています
『信心』を、私達は「しんずるこころ」と読みますが、本願寺第三世覚如上人は
「まことのこころ」と読みました。
辞書を調べますと、『信』は、「まこと」とはっきり送り仮名が記載せられています。
世間の色々な宗教も、信ずるということを頻りに力説致します。
しかし、まことと言うことは、嘘や、欲や、駆け引きや、恐れが有ってはまこととは言えません。
果して、まことの心からの信心と言えるのでしょうか。
むしろ、世間で言う信心は、相手が仏様であっても、神様であっても良い。
自分の欲を叶てくれるものならば何であっても良い。たとえそれが悪魔であっても良い
と言うのではないでしょうか。
『鰯の頭も信心から』という言葉はこんな意味から出た言葉なのかも知れません。
何故、願いと言わずに欲と言うかと言いますと、
「どうぞ、隣の人の病気を治してやって下さい。私の命と引き換えでもかまいません。」とか、
「どうぞ、隣の商売が繁盛して下さい。私の商売は、どうなってもかまいません。」
などと祈る人は一人も居ないと思います。
何時も祈ることは、自分の家庭が幸福に成りますように、他人の事はどうでもかまいません。
というのが私達の心ではないでしょうか。故に願いと言わずに、欲と言ったのです。
これを上人は、「行者の悪しき自力の心ではたすからず」と言われたのです。
行者とは私のことです。私の欲や駆け引きのこもった悪い心では仏様に通じる筈が有りません。
又、信心とは、「凡夫の迷心にあらずまったく仏心なり」と有りますように、私が起こす信心ではありません。私の心から出た信じる心は、自分の都合通り行ったとき喜ぶ信仰です。
例えば「私どもは、夫婦共に健康で、子供にも恵まれ、仕事も順調で、子供達も其れぞれ幸福に暮らしています。」と喜んでいる人が居ますが、しかし、一旦、不幸な事に出会いますと、『一寸先は闇』という諺もあります。
順調に行っていても、突然思わぬ不幸が訪れるかも知れません。
何時までも若く健康で居られるとは限りません。連れ合いに急に旅立たれるかも知れません。
仕事も順調だと喜んでいても、経済的不況の煽りを受けて会社が倒産するかも知れません。
可愛い子供たちが思わぬ交通事故にあい、多額の保証を背負うかも分からないのが私達の生活なのでしょう。
思い通りに成って喜んでいる信仰は、不幸な事態に出会うと「神も仏も無い。」と愚痴に変わる信仰です。
私の心からでた信仰には、安らぎが有りません。
そんな心の持った私であるとお見通しの阿弥陀様。
故に信ずる心も、清らかな世界に生まれたいと願う心も、
総て阿弥陀様の手元でこしらえて私達に回向(与えて下さること)して下されたのです。
これを「仏心を凡夫にさずけしめたもう」と表わされています。
又、親鸞聖人のお書きに成られた『教行信証』 には、「如来の大悲回向の心」とも「本願招換の勅命」と表わされています。これを賜った信心とも他力の信心とも言うのです。
真実信心を頂いた生活は、善きにつけ悪しきにつけ、総て己のものと受けとめ、苦もまた自分の物と受け止め、幸福に変えて行く日送りが有るのです。
真実信心に生きる人(妙好人)
私が大学生だった頃、本堂は老朽化が進み、修理が出来ない状態で建てなおす事に成りました。しかし、
なかなか浄財が集まりません。そんな時に、御門徒の数人が集まり、信心の歌を御詠歌風に節を付けて唱え、家を一軒一軒回り浄財を集めてくれました。その中に、特に。信仰の篤い方がいました。
その人なら、さぞや晩年は幸福な人生を送るだろうと思っていましたが、現実は其の逆でした。
七十才に手が届く頃に成って、不幸にも、相次いでお嫁さんを亡くされました。
その都度、お孫さんを残して亡くなるものですから、年老いてから小さなお孫さんを何人か育てていました。元々体が病弱な上に、生活も裕福とは言えない家庭でしたから、傍から見ていて、気の毒なほどでした。
しかし、決して愚痴を言われませんでした。月の命日参りに行きますと、必ずお孫さんと一緒に後でお参りしておられる。「御婆さん、大変ですね。」と話しかけますと、
必ず「よくよく前生の業が深いのでしょう。恥ずかしいことです。でも私は幸せ者です。」と言われました。
「あれほど信仰したのに、何故こんなに不幸になるのか神も仏も無いものか」と愚痴っても不思議でないのに……。その御婆さんの姿を見ていると、本当に幸せな人だと思いました。
どうみても、世間で言うような幸福な人ではありません。其れが、世界一の幸福者であると喜んでいる。
人々は、病気が治って有難いとか、金を儲けて有り難いと、思い通りに願いが叶った時に『有難い』とか、『感謝します。」と言いますが、
【有難い】や【感謝】の字の何処を見ても、思い通りに成って嬉しい。というような意味は有りません。
『有り難い』という字を見てみますと、『有ること難し』となっています。其の意味は、こんな事があるはずが無いということです。
金が儲かれば嬉しいですし、病院で病気が治れば喜べますし、宝クジで大金が入れば誰だって喜ベます。
なんら、あたりまえであって不思議なことではありません。
この御婆さんのように、見た目には、不幸に見える人間が、「私は、幸福者ですよ」と喜んでいる。
喜べるはずが無いのに喜んでおられる。これこそ、不思議なことであり、有るべきはずの無いことであります。本当の有り難い姿とはこのような事をいうのだと思います。