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【第三に、あつかましい信仰(因果(いんが)無視(むし))】

 

私の心のなかには、自分は苦労せずして、効果を得たい。という思いがあります。

人によっては、働かずして、家でごろごろしていて、酒を飲み、乱れた生活をして、それでいてお金が入ってきますようにとか、健康になりますようにと願っています。

 

ある時、檀家の娘さんがお寺へ訪ねて来られ、

「実は、ここ数年前からある信仰をしていました。といいますのは、数年前から体の調子が悪く、特に胃潰瘍で悩んでおりました。そんなある目、友人が、『この信仰をしたら病気が治るからやってみなさい。」そう言って勧めに来ました。最初の一、二年の問は良くなりたい一心で一生懸命にやっておりました。しかし、一向に良くなりません。それどころか、高い会費は納めなければならないし 新しい会員を勧誘し、例会には出なければならないし、・・・

其のうちに、家事をおろそかにして、主人には怒られるようになりました。

 

そこで実家の母親に相談したら、『なにを馬鹿な信仰をしているか、お寺さんに話して全部処分してもらえ。』といわれました。そこで、これを処分して欲しいのです。お願いします。」と言うのです。

「そうですか、事情は良く分かりました。ところで、御宅のお仕事は何ですか」と尋ねますと、

「スナックに勤めています。」と言われます。

「スナックで働いていると、お酒も飲むのでしょうね」と聞きますと、

「売上げを上げるために、酒を沢山飲みます。」

「仕事は何時までですか、夜遅く迄働いているのでしょう」とさらに聞きますと、

「終わるのは夜の十一時ですが、店に客が居ましたら、帰って欲しいとも言えませんから、後片付けをしながら客の帰るのを待っています。時には家へ帰りますと、午前二時、三時ということもあります。」

 

「そうですか、ではあなた、体の悪いことを、信仰で治そうとすることよりも、仕事を考える必要があると思いませんか、決してその仕事を辞めなさいと言っているのではありません。酒を飲む量を減らすとか、

一週問に一日ぐらいは飲まない日を決めるとか、夜は出来るだけ早く帰って休むように心掛けるとか

まず自分が健康に成れるように心掛けて生活しなければ、何を信仰し拝んだところで良く成るはずがありません。そんな虫の良い信仰は何処を捜してもありません。」そう話したことがありました。

 

【お釈迦様の教えは、因果の教えです】

 

前文でも書きましたが、因果とは、蒔かん種は生えんということです。

 総ての結果には、そうなるべき原因があるということです。

 

仕事もせず遊び呆けていて、さらに人に迷惑な事ばかりしていて、金が欲しいとか、幸福になりたいとか願うことは、花の種を蒔かずして、花よ咲けと言っているのと同じことなのです。

 しかし、世の中を見ておりますと、寝ていて棚からぼた餅というような事が有ります。

人を押し退け、裏切って、人から後ろ指を指されながら、どんどん会社を大きくして働きもしないのに、偶々買った宝クジがあたって、多額の金が転がり込んで来た。そういう事実を目の当りに致しますと、因果を否定する心が起こって参ります。こんな思いを仏教では「謗因果(ぼういんが)」というのです。

 

一生懸命、正しく努力している人はその蒔いた行いが、必ず幸せを結ぶときが来る

でしょうし、労せずして棚からぼた餅を得たものは、以前にそうなる原因が在ったのか、或いは、お金でも前借りと言うのもあるのですから、前借りなら、何時か精算しなければならない時が来ると思います。

自分一代で精算出来なければ、子供の代、孫の代に精算しなければなりません。

 

例えば、一生懸命真面目に親が生活をしていれば、たとえ財は恵まれなくても、その人の子供が将来仕事に就くときに、「あのお父さんの子供なら間違いが無い」と言って信用してくれるでしょうし、、

その逆に、親が財産には恵まれても、人を裏切り泣かせる生活をしていれば、将来その人の子は、「あの親の子供なら、信用出来ない。」とか、「油断出来ない。」と、言われるでしょう。

 

 宝クジが当たったとしても、果たしてそれが幸せでしょうか。

以前、宝クジが当たって喜んでいた人が、次の日には、叔父さんに頭を斧で割られて、死んでいたという事件が有りました。

 

 それに、あるアメリカの新聞社が、「宝クジに当たったら、まず最初になにをしますか?」と調査したところ、殆どの人が「まず会社を辞めます」と答えたそうです。

会社を辞めて、何処かに家を構えて、仕事もせずに何時もぶらぶらし、美味しい物ばかりを食べて生活をしていると、運動不足になり肥満化し、健康も損ねてくる。

その様子を子供は見て育ちます。家は金持ちだから、努力せずとも欲しい物は何でも手に入る。と思い

努力することも、我慢する事も知らずに育ちます。

子は親の姿を見て育つのですから、その子供が大きくなった時どうなるのか恐ろしい気が致します。それに、金が有りすぎるとろくなことはない。人を信用しなくなりますし、その上、外に愛人でもつくったりすれば家庭はばらばら。

別に、私が宝クジに当たらないから憎くて言っているのではありませんが・・・。

 

『善因善果、悪因悪果』(良い行ないが幸福を招き、悪い行ないが不幸を招く。)

 これは、仏教の根本教義ですが、源信僧都の書かれた『往生要集』には地獄の様子がこのように表現されています。

 地獄には鬼(獄卒)がいます。 罪人を棍棒や槍で、打ちのめしたり、突き刺したりしています。

 有る者は釜で煮られ、金火箸で舌を抜かれています。

剣の林や熱砂、茨の木で身を苛なまれる者もいます。虫や鳥、獣の類までが襲いかかり、

あるいは、血の河に流され、猛火にこの身を焼かれている者がいると説かれています。

 

 そう聞くだけで、その恐ろしい様子に身の毛がよだつ思いがします。しかし、それらは単なる責め苦への恐怖だけに止まりません‥獄卒の、「活きよ。活きよ。」と叫ぶ言葉の中に、死んでは生き返り、又死んでいく、そう繰り返しながら、永遠と続く苦しみの様子に、救われることの無い、恐怖を覚えます。

罪人達は、獄卒(鬼)に打ちのめされる苦しみから、

 

 「なぜ、私はこんなに苦しめられなければならないのか、貴方には慈悲の心が無いのか。」と、怨みながら口々に訴えるのです。

 すると地獄の獄卒(鬼)は、大声で笑いながら、よりいっそう激しく罪人を責め立てて、

「他人の作った悪事のために、お前が受ける苦しみではない。自分の作った業(行い)のために、自分の受けた果(報)なのだ」と雷がごとき大声で叱りつけるのです

 

 これらの話は、人々に恐怖心を与えるだけの作り話と批判される人も居るかも知れませんが、けっして人に恐怖心を与える目的で説かれたのでは有りません。

 

人は無意識に罪を作り続け、その自覚も無いままに生きている存在だということに気づきなさいというメッセージが込められています。

 

そして、自分の為したことだけは、必ずそれが善きにつけ悪きにつけ、精算しなければなりません。

故に、自己を見詰めない信仰を、あつかましい信仰と言うのです。

私達は自分の行いを、今静かに見詰めなおして見なければなりません。

 こんな笑い話が有ります。

隣に住んでいる御婆さんは、御節介で、何かにつけて世話を焼きたがる。ある時も御婆さんが訪ねてきて、「あんたん所の障子に穴があいている。夜になるとこちらから見ると、仏壇のローソクの火が見えている。 早く塞いだ方が良いよ。」と言ってきました。

そこで、「有難う、さっそく破れたところを塞ぎます。」と礼を言いながら、

「で、あんた、夜は障子を閉めているだろうに、どうして、こちらの様子が分かったの。」と言いながら、 隣の家を見ると、向うの家の障子にも大きな穴が開いていた。と、言うのです。

隣の御婆さんは、自分の家の障子の破れた穴から、こちらの家の障子の破れた穴を通して、

仏壇のローソクの火を見ていたというのです。

 人のことは良く分かる。悪いところも良いところも、

                   しかし いざ自分のことになると、全く何も分かりません。

皆この御婆さんのようではないのでしょうか。

鬼に棍棒で懲らしめられている罪人も、何故自分は苦しめられなければならないのか分かりません。

そう、自分の作った罪によって罰を受けていることに気付かないのです。

この地獄こそ、自己反省も無い無自覚者の姿を表してるのです。

 

正しい信仰は、まず己自身を見詰める事でなくてはなりません

己の身を正さずして、幸せになろうと願うことは虫が良すぎるのではないでしょか。

是をあつかましい信仰というのです。

 

【正しい信仰】       自己との出会い。        

正しい信仰は、まず自分自身の本当の心の姿に出会って行くことから始まります。

仏教は慈悲と智慧の宗教です。

仏様はどの仏様も、慈悲と智慧を備えておられます。しかし、とりわけ阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)という仏様の、其の力の大きさは、他の仏様の比ではありません。なぜなら、阿弥陀仏というそのお名前が、そのまま慈悲と智慧に限りが無いという意味なのです。

 

阿弥陀(アミダ)とは、インドの言葉であり、

(アミターバー)、(アミターユス)という言葉から成っています。

(アミターバ)とは、智慧に限りが無いという意味であり、

(アミターユス)とは、慈悲に限りが無いという意味の言葉です。

その智慧と慈悲において、他の仏様の及ぶところで無い故に、そのままお名前に成っているのです。

 

【慈悲(じひ)】とは『智度論』に「抜(ばっ)苦(く)与(よ)楽(らく)」と解釈されています。

「抜苦与楽」という意味は、仏様が、私達の苦しみを取り除き、楽しさを与えてあげたいと願う思いです。それは、親が、我が子をどこまでも愛し、幸せであって欲しいと願う思いに似ています。

 簡単に言いますと【慈悲】とは【やさしさ】です。

 でも、優しいからといって、子供の要求するままに何でも与えるのが本当の優しさではありません。

時には、「そんな無理を言ってはいけません。」と叱る事も必要です。

愛する子供が間違った方向へ進みそうな時には、子供の将来を考えて、厳しく諭すことも必要です。

本当の自分の姿、本当の道理を知らせて、幸福に成って欲しいと願う、それが智慧の働きかけです。

故に、【智慧】とは【きびしさ】です。

「叱る父、泣いて抱える母の慈悲

     かわる心と子は思うらん」

誰が詠まれた詩か知りませんが、叱る父親の愛情も、抱いて共に泣いてくれる母親の愛情も、子供を思う

思いに変わりは有りません。

 この【やさしさ】(慈悲)と【きびしさ】(智慧)の二つが揃ってはじめて正しく子供が育つように、

信仰もこの慈悲と智慧が備わらなければなりません。

 

しかし、私達は、厳しさより優しさが好きです。

そこで優しさばかりを求めます。

「仏様は、私達が幸せに成って欲しいと願っておられる。」その慈悲の心だけを聞いて、

(今私は苦しんでいる。仏様に御願いをすれば助けてくれるだろう)と、自分に都合の良い解釈をして、

無理な御願いをしているのではないでしょうか。

 

例えば、病気で苦しんでいる人ならば、どうぞこの病気を治して下さいと願い、

経済的に困っている人ならば、どうぞ金が儲かりますようにと願い、

親子の問題や、嫁姑問題等、人間関係のトラブルで苦しんでいる人は、どうか、相手が、私の願うような人にかわって下さいと御願いをしています。

 

確かに病気が治れば有り難いし、金が儲かれば喜べます。しかし、私達の欲するままに、何でも聞いてやる事が、はたして仏の慈悲でしょうか。

 

いいえ、むしろ、人間は生まれたかぎり歳を取り、老いれば病気がちになり、やがて死なねばならない存在である。と、無常な存在であることを知らして、その人その人の持った業(自分の過去に行ってきた行い)の償いだけは、幸せも苦しみも受けていかなければ成らないことを知らし、

限りない欲を持ち、相手が自分の思う通りにならないと、腹を立てる根性を持った存在であると、苦しみの原因は総て私にあると、智慧の厳しさを持って知らせることが本当の慈悲の心ではないでしょうか。

 

世間の人々の信仰を眺めますと、人間の想像を超えた絶対的な力に、祈り願うことで、病気が治り、

自分の思い通りに事が成る、というような奇跡を求めているのではないでしょうか。

 

 しかし、本当に奇跡が起こせるのならば、死んだ人間を生き返らせてみてはどうでしょうか。

 あるいは、神様や仏様が自分に乗り移ったかのごとく見せかけ、「何代か前の先祖の霊が迷っている。

其の霊が貴方に禍をもたらしている。」と、相手に恐怖を与えています。

 

勿論先祖をお祭する事は尊い事ですが、先祖が禍を為すかのごとく考え、自分の生き方を棚に上げて責任を転嫁するような教えは、根本が間違っていると思います。

 

本当に霊の世界が分かるのならば、今世間を騒がしている、三浦事件の、殺された白石千鶴子さんの霊を呼び出して、「私は誰々に殺されたのです。」と言わせる事ぐらい出来そうなものです。

 

それに、占いで何でも分かるのならば、失せ物の様な小さな物を捜していないで、グリコ事件の怪人二十一面相が、今何処に居る誰某であるぐらいのことが分かりそうなものです。

犯人が分からず迷宮入りの事件は沢山有りますが、犯人を言い当てたというようなことは一度も聞きません。

 

さらに、中国から沢山の戦争孤児が肉親を求めて来日しましたが、終戦からすでに四十数年も経っている現在、両親も既に亡くなり、彼らの記憶も薄らいでいます。

その為、数週間の調査では肉親を見つけることも出来ず、涙ながらに帰国する彼等の姿を見るに付けても、霊と話が出来るとか、奇蹟を起こせるがごとく吹聴している多くの宗教の先生方が、既に亡くなっている彼等孤児の両親を呼び出し、別れた時の状況、肉親は誰某と、聞き出せそうなものです。そういうことを一度も聞かないのはどういうことでしょうか。

 

又、かりに霊が見えたといってどうだというのです。貴方の苦しみが本当になくなるというのですか。

本当の信仰とはその様なものではないのです。

 

  

 

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