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はじめに  (昭和五十九年度同朋会の講義から)

 

 

 世の中を観るに、人々は自己を失い、苦悩に満ち溢(あふ)れています。

新聞に、昨年(昭和五十八年度)の自殺者の数が、二万七千八百二十人とありました。

そして、何と四十代~五十代の一番働き盛りで、人生の目標(もくひょう)も、自己をも確立していなければならない年齢に、自殺をした人が六割をしめているというのには驚かされます。又、ある雑誌には、昨年、精神を病み、病院に入院した人は、約三十三万人、さらにその雑誌の調査によると、五百万の人間が、うつ病にかかっているというのです。

 

 まさに現代は、自殺と心の病の時代といわねばなりません。そんな社会にあって、人々の信仰は、金がもうかるとか、病気が治るとか、目の前の利益のみを求めて、真の幸福を求める心薄く、自らの真の姿を見ず、反省もなく、あまりにも仏の教えとかけ離れていることを悲しく思います。

かつて先人が、「先師口伝の真信に異なる事を歎き(なげ)」と、涙の内より、歎(たん)異(に)の書を著わされたように、少しでも、仏の心に耳を傾けていただきたく、愚(ぐ)心(しん)の身ではありますが、あえてここに著すことにいたします。                      

      合掌   1984  著者しるす

 

目    次

《上巻》

【 苦 】……………………………………………………………………………………5

 

【邪 見】……………………………………………………………………………………6

(A) 本当の物が見えない。……………………………………………………………  

 

【無 常】…………………………………………………………………………………… 

 

【無 我】…………………………………………………………………………………… 

 (一) 思う通りにならない。…………………………………………………………

 (二) 自分の持ち物なし。……………………………………………………………

 (三) 他力ということ。………………………………………………………………

 

(B) 原因が逆に見える (顛倒の見)………………………………………………

 (一) 相手や相手をとりまく友達や世の中の責任とする…………………………

 (二) 目に見えないものの責仕とする。……………………………………………

 (三) 霊的な物の責任とする。………………………………………………………

【 業 】

 (一) 苦しみの原因は自分にある。………………………………………………………  

 (二) 善い行いが幸福を招き、悪い行いが不幸を招く。……………………………

 

 *善い行いとは*…………………………………………………………………………

  【布 施】…………………………………………………………………………………

         ( 無財の七施)…………………………………………………………………

 【持 戒】…………………………………………………………………………………

 【精 進】…………………………………………………………………………………

 【忍辱・禅定・智慧】……………………………………………………………………

 

【自らの力で善は為せるか】 ……………………………………………………………

【絶対他力の善】……………………………………………………………………………

 

《下巻》

子供は親の姿を見て育ちます………………………………………………………………

  (オオカミ少女)

子供は親のコピーです………………………………………………………………………

【 邪 信 】

 (一)欲の信仰……………………

 (二)無智な信仰(人間万事塞翁馬)

 (三)厚かましい信仰(因果無視)   

 

【正しい信仰】

仏の教え(本当の自己に出会う)         

自己を見る(自己との出会)           

 

【 信 心 】

真実信心に生きる人(妙好人) …:

  有り難い・感 謝…

   

【 苦 】

 

誰もが苦しみを背負って生きています。「私には、苦しいことが有りません。」と、言う人は一人も居ないと思います。子供は子供で、友達や、勉強の事で苦しんでいます。青年になれば、恋に苦しみ、結婚して子供が出来れば、養育に苦しみ、歳をとれば老後の事で苦しむというように、その時代、その立場に応じて、私達は苦しんでいます。 

最近は、高齢化社会と言われ、人々の平均寿命も延び、人生八十年という時代になりつつあります。しかし、喜んでばかりはいられません。平均寿命が延びれば、当然、老後の生活が深刻な問題となって来ます。それは、昔の人に比べて老後の苦しみが増えるということになるのです。長く生きていれば、多くの愛する者とも別れなければなりませんし、(愛別離苦)壊苦(えく)といって目的を果たしてしまった者は、そこから別の苦しみが出てまいります。

 

例えば、子供を一流大学に入れ、卒業後は一流の会社に就職させ、結婚させることを、人生の目的としていた人が、その思い通りに目的をなし終えた時に、自分の目的がなくなってしまう所から起こる苦しみです。

又さらに、長く生きるのですから、死に対する苦しみも昔の人に比べて長いと言わねばなりません。その為、これからの人生は、ますます苦しみの多い人生といわねばなりません。

しかし、その苦しい生活の中で、人々は幸福を願い、その苦しみから解放されることを願っているのです。

 ではなぜ、苦しみから解放されないのでしょうか、それは、(正しく物事を見ないから)であると、釈尊は教えます。

 

【邪  見】(じゃけん)

 

赤いサングラスを掛けてあたりを見渡せば、総てが赤く見えます。青いサングラスを掛けて見れば、青く見えるのはあたりまえのことです。邪見というサングラスを掛けて見ますと、

 

(A)・本当の物が見えなくなります。

(B)・原因が逆さまに見える。(顛倒(てんとう)の見)というのです。

 

苦しみの本当の原因が見えないのですから、苦しみから解放されない事はあたりまえです。それどころか、原因が逆さまに見えるのですから、ますます苦しみに陥(おちい)ってしまいます。

 では、本当の物が見えなくなるとは、どういう意味でしょうか。

 

第一に、お釈迦様は、「人生は無常であり、無我である」と言われました

 

【無 常】

 

 私達が、無常という言葉を耳にするのは、近隣の人が亡くなった時でありまして、それ故、無常とは、人が亡くなる事ぐらいに考えておられる人も多いと思います。確かに、愛する者を失ったり、親しい人と死別したりしますと、無常を感じますが、自分も又、無常であって、次の瞬間がわからないと感じる人は、少ないと言わねばなりません。 

無常とは、川の水が常に流れているように、総てが変化しているという意味です。それは、人間として生れて来た以上、刻一刻と死に向っていることを意味しているのです。歳を取りますと、筋肉は衰え、骨は脆(もろ)くなり、内臓も萎縮(いしゅく)します。例えば、肝臓は、二十代~三十代には、千二百グラム程ありますが、八十代にもなりますと、七百七十グラム程に萎縮するといいます。それは、病原菌に対する免疫が低下すると言う事なのです。人間の脳細胞も百億個程あるそうですが、これは、決して増えることはなく二十歳を過ぎると1日に約十万個づつ死んでいくのです。その為、記憶力も衰え、思考能力も低下していくのは、あたりまえです。

よく、病気が直って苦しみがなくなったと喜んでいますが、総ては無常なのですから歳を取りますし、歳を取れば病気がちになるのですから、一つの病気が治ったからといって、何ら苦しみの解決にはなりません。

しかし、無常であるにもかかわらず、弘達は、何時までも変化せず、親子兄弟が一緒に居られる常住を願っています。

よく、あなたにとって幸福とはどんなことですか、とお聞きしますと、「今の状態が何時(いつ)までも続くことが幸せです。」と、言われます。何時までも変わらないならそれもいいでしょうが、死に向って常に変化している私達には、かなわない願といわねばなりません。

又さらに、無常とは、目に見える物だけが変化するというのではないのです。

目に見えない物、そう、心も変化しているのです。

 愛し合っていた人達が、時が経つにつれ、「あの時の約束を忘れて、あの人は私を捨てて行ってしまった」と、相手の心の変化を恨んで泣いている事があります。そうかと思うと、年老いてから、子供に老後を見てもらおうと思っていたのに、あんなに心の優しかった息子が、私を捨てたと泣いています。

これらは、無常を理解していないために起こる苦しみと言わねばなりません。

 【大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)】の中に、五つの悪ということが説かれていますが、その第三番目に、寄生(きせい)する悪というのがあります。お互いがあてにし頼(たよ)りにし合うことは、悪であると言うのです。一般には、お互いがあてにし合うことは、良い事のように思えます。【人】という文字も、お互いが寄り合い、あてにし合っている所から造られたとも言います。しかし、ここで静かに考える必要があるようです。総ては無常ですから、自分も無常であり、相手も無常なのです。お互いが、明日をも知らぬ身、いや、一寸先がわからない命なのですから、頼りにし合ったり、あてにし合ったりできないということになります。

 

【無 我】

 

蓮如上人が、【御文】に、「仏法は無我にて候(そうろう)」と言われましたように、

無我という意味には深い意味があり、簡単には言い表せませんが、ここでは、

三つ考えてみたいと思います。

【一】総(すべ)ては思い通りにはならない。

【二】私(自分)の持ち物はない。

【三】他力(たりき)ということ

 

一】総(すべ)ては思い通りにはならない。

人は誰でも、人生を、又相手を、自分の思い通りにしたいという願いがあります。

最近よく親子の断絶ということを耳にいたします。その苦しみも、お互いが相手を自分の思い通りにしたいと思う所から起こります。親は親で、子供の持っているすばらしい所を見ずに、又それを見守ろうとせずに、世間一般の物差しで測った、いわゆる世間でいう、エリー卜になって欲しいという思いから、一流の学校、一流の会社に入ることを強要します。子供は子供で、自分の願う生き方をもっています。

お釈迦様が生れた時、「天上(てんじょう)天下(てんげ)唯我独尊(ゆいがどくそん)」と、言われたことはよく聞く話ですが、

これをある人は、天にも地にも自分が一番尊いとは、自惚れていると言った人がいましたが、決して巳惚れて言った言葉ではありません。

その言葉の意味は、総ての人、一人一人が、「私は尊い者である。」ということです。

あなたも、天にも地にも一人ですし、私という人間も世界中に一人しかいない尊い存在であるという意味なのです。それは、私の良い所、悪い所もすべて二人といない存在であるという意味なのです。

英語が一番、数学が一番と同じように親孝行が一番、優しさが一番、ということもあるのです。そう、総ての人間にはすばらしい所があるのです。

吉田啓道氏の 『渇を叫ぶがごとくなり』という本に書いてありましたが、

メンデルは、何回も教員の採用試験に落ち、ピカソはアルファベットもまともに書けなかったし、アインシュタインも、学校では問題児であったというのです。

そんな彼らが、世界的に有名になったのは、彼らのもっている一番すばらしい所を、親も彼ら自身も大切にしたからであろうと思います。そのすばらしい個性を見守ってやらずに、又延ばしてやらずに、無理に世間一般の枠に閉じこめて、自分の思う通りにしようとする所に、心の通じ合わない苦しみが生れて来ます。

自分で自分さえ思い通りにならないのですから、他を思い通りにしようとする事は、愚(おろ)かな事と言わねばなりません。

 人生は、自分の思っている通りにはなりません。多くの人は子供を育て、その子供に老後を見てもらい、孫(まご)達(たち)と楽しい生活をしたいと夢見ています。

しかし、多くの老人は、その願いが思う通りにならなかったと泣いています。

先日、檀家の御婆さんが養護(ようご)老人(ろうじん)ホームで亡くなり、枕(まくら)経(きょう)を揚げに行ったのですが、何と多くの老人が入所していることでしょう。寝たきりになり、天井の一点ばかりを見詰めている生活に何を考えているのでしょうか、現在は、核家族化し、家はだんだん小さくなって来ています。

老人の身の置き所がなくなり、老後は、孫達と楽しく暮らすことも、これからはますます難しくなると言わねばなりません。その思い通りにならない人生を思う通りにしようと思う所に苦しみが生まれて来るのです。

 

【二】私(自分)の持ち物はない。

 

人々は物に執著(しゅうちゃく)しています。オギヤーと生まれた時は、物に対する執着も少ないのでしょうが、物心がつき始めた時より、親も教えますし、自からも身につけていくのでしょうか、私にも二人の子供がいますが、今長女は五才、次女は二才です。そんな小さな娘が、「これは、私の。」と、言い合って、喧嘩(けんか)をしています。二才にでもなると、はっきり自己主張するのには驚かされます。小さな時から訓練をするのですから、物に対し執着する心が強くなるのは、あたりまえと言わねばなりません。

世間を眺(なが)めますと、自分の土地に隣の家が入りこんで来たとか、家を借金(しゃっきん)の抵当で取られてしまったとか、一人息子を、相手の家へ取られたとかで苦しんでいますし、自分の持ち物が多い為に、盗まれないだろうかと心が休まらず、又、死んだ後の事まで考えて、いかに子供に相続すべきかと苦悩しています。

あげくのはてには、その人の死後、子供達が自分の物であると権利を主張し合い、兄弟喧嘩をして苦しんでいる始末です。

 結婚して間もない頃のことでした。家内のお父さんが、家へ遊びに来られて、お茶を飲みながら、

「確か、この辺に本田屋という旅館があったと思うのですが、御存知ですか?」と尋ねるのです。

私の父が、「はい、良く知っています。この寺の入口の所で、家内が仏壇店(ぶつだんてん)をしていますが、あの建物の立っている所が、元の本田屋の跡地です。終戦後私が買ったのですが、なぜですか?」と答えますと、

驚いた様子で、そんな事が本当にあるのかと思えるような不思議な事を話し始めました。

 

「私(家内の父) は、東京でN家の長男として生まれました。しかし、父と母との関係がおかしくなり、私達を残して母は実家へ帰っていきました。その後、父は後妻を貰い、やがて、二人の問に数人の子供が生れました。子供が出来ると、当然、義母は自分の実の子供に、跡を継がせようとします。

当時、新宮に父の弟がいて、子供がいませんでした。そこで、先妻の子供である私を養子に出したのです。今で言う体裁のいい追い出しにかかったのです。

しかし、不思議なものですね、その私を追い出した義母は、実は本田屋の一人娘だったのです。私も今知って驚いたのですが、では、私を追い出した義母の実家へ、追い出された子供の娘が、入って来たということになるのですね。」 

「因縁とは、不思議なものですね、自分が取ったと思って喜んでいても、周り回って違った形で交換していたということでしょうか、それを思うと、本当に私の持ち物はないということですね。」と話した事がありました。

 法律では、この土地は誰某の、この家は誰の持ち物と記されていますが、

しかし、人の持ち物は、一時の預かり物です。なぜなら、自分の持ち物でない証拠に、死んだ時、それを持っていった人は一人もいません。本当に自分の家や土地なら、持っていくでしょうし、自分の子供や妻であると言うのなら、死んだ時、喜んで付いて行きそうなものですが、そんな話も聞きません。一時の借り物を自分の物と思い込む事で、より人間は苦しんでいると言うことなのです。 

 

第三、他力(たりき)ということ】

 

無我とは、他力ということであろうと思います。世間では他力ということを間違って考えられているようです。何か他力と聞くと、人をあてにして自分は何もしない怠け者の事のように思っている人が多いようですが、決してそのような意味では有りません。

他力とは、良い事は自ら望んでどんどんしなければなりません。しかし、それを、

「おれがしてやった」と自惚れるのではなく、良い事のできるはずのない私が、人に対して良い事をしたのなら、それは私の力ではなく、阿弥陀様の願(本願(ほんがん))が、しぶとい私の心に、到り届いて、そうなさしめられたのであると、総て、仏様の働きかけによると感謝する心を他力というのです。

『他力とは本願力(ほんがんりき)是なり。』  と説かれているように、私や貴方の力という意味ではなく、阿弥陀如来の本願(総ての人を平等に差別無く救い取りたいという大いなる願い。)の力(働き)という意味なのです。

即ち、お陰様と、目に見えない大きな働きかけを、自らの上に見出していくところに他力があるのです。

又さらに、他力とは、とかく人間は自らの力で生きていると自惚れ(うぬぼれ)がちですけれど、

静かに考えますと、自分の力などは微々たる物で、総てといっていい程、多くの恵みによって生かされているということに気づかされます。水も、空気も、太陽も、どれも総てが、頂きものです。

例えば、空気にしても、私が出す二酸化炭素を、草木が酸素にして返してくれます。

その酸素を呼吸し二酸化炭素にして、草木に返してあげていると知らされますと、草木がなくなりますと、私は生きて行けません。草木と私は共存しているという事なのです。総てがこの様に、自然と私とは一体であるということなのです。

 又、食べる物も、仮に自分一人で生きていると言うのなら、自分で総て造り出さなければなりません。自分の金で買ったのだから自分の力で生きていると言う人がいるかもしれませんが、いくら金があっても、誰かが造ってくれなければ買えませんし、飢饉にでもなれば、いくら金を出しても何も手に入れる事はできません。そう思うと、多くの人がそれぞれの仕事をしてくれているお陰で、私達は生きていけるという事なのです。そのお蔭を感じない所に、多くの苦悩が生まれて来るのです。以上のように、邪見のサングラスを掛けて物を見ますから、無常、無我である本当の事が見えなくなり、いつまでも苦しみから解放されないということになります。

 

 

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