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【業】

 

 (苦しみの原因は私にある。私の行ないにある。)

行いを仏教では業【身口意の三業】といいます。私達の考えでは、身体でなす行為を行いとするのでしょうが、仏教で言う行いとは、口で言う行為も、又心で思う行為も同じと考えます。この身と口と意の行為を合わせて業といいます。即ち、私の為しえる総ての行為を業というのです。

 世間では、「業が深い」とか、「業の報い」とか、「前生の業」という言葉で苦しみに出合った時に使用されているようです。その為、業と聞くだけで、苦しみを想像し災いをもたらす怖いもののように考えている人も多いようです。しかし、業とは、行為ですから、善い行為もあれば、悪い行為もあります。

 

 お釈迦様が、「善因楽果、悪因苦果」と説かれたように、善い行いは、幸せをもたらし、悪い行いは不幸をもたらす。と言うのですから、業の報いは、苦しい時だけでなく、幸福も又、業の報いといえるのです。そしてその業とは、他人がした行為ではなく、自分が為した行為なのですから、その行為の清算だけは、自分でしなければなりません。

 例えば、人を傷つけておいて、刑務所へ行くのは嫌だと言ってすむでしょうか、自分か為したことなら、その責任を果たすのは当然と言わねばなりません。善い行為なら、誉められるでしょうし、悪い行為なら、罰を受けなければなりません。幸福になろうと思えば、自分の行為を一度静かに反省する必要があります。

 

善い行いが幸福をまねき  悪い行いが不幸をまねく

 

『何が善い行為でしょうか?』(六波羅蜜)

釈尊は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という六つの善い行いを説かれました。

簡単にそれぞれを説明しますと、

 

【布施】とは、

施すということです。困っている人に、金や物を与える(財施)ということもあります。悩み苦しんでいる人の話を聞いてやり、その苦しみから逃がれる方法を教えてあげる(法施)ということもあります。

又、【無財の七施】といいまして、何もなくても、布施は出来ます。人に与えるとは、物だけではありません。印象も相手に与えます。

【無財の七施】

一、【和願施(わがんせ)】  ニ、【慈眼施】  三、【愛語施】  四、【身 施】

五、【心 施】  六、【床座施】  七、【房舎施】 

 

例えば、優しい眼差しで微笑むことは(和顔、慈眼施)、どれだけ人を幸福にするでしょうか、

思いやりの言葉(愛語施)も、聞く人の心を和ませますし、美しい身の立ち振る舞い(身施)も、思いやりの心(心施)で人に接する事も、その外に、人に席を譲ったり(床座施)、雨の日に傘を差し出す優しさ(房舎施)が、どれ程、人を幸せな気持ちにさせるでしょう。人はこの布施の心を努めて為さねばなりません。

【持戒】とは

規則を守り、規律正しい生活をすることです。

それは、常に相手の立場を考える所から為されなければなりません。規則正しいというから、朝は早く起きて、夜は、早く寝なければならないというのではないのです。人によって、生活は様々です。

仕事によっては夜の仕事なら、朝早く起きるのは、無理でしょう。この持戒とは、自分の体、仕事、家族、子供…を考えた上で、一番皆が幸福になれると思える生活を心してする事ではないでしょうか。

 

【精進】とは

 幸福な生活を目標として、正しい行いを一心に努めて行く、これを、精進といいます。

 

【忍辱・禅定・智慧】

 お釈迦様は、「何が悪であるか?」という質問に、このような譬話をされました。

 

一匹の猿を部屋に閉じこめて、四方と上方に窓を開けて、その窓の一つ一つから、猿に刺激を与えると、

その刺激の来る窓に向って猿は、休むことなく、そのつど歯をむき出して飛びつくのです。それが悪である。」と言われました。

 

〔猿〕 とは、人間の事、

〔五つの窓〕 とは、(目)で物を見、(鼻)で、においをかぎ、(口)で味を味わい、(心)で、思い、(身)で刺激を感じることを表しています。これを五感といいます。

 

 この五感で刺激を受けた時、直ぐに、反応して行動する事を悪と教えるのです。

直ぐに反応することを止めて【忍辱】、少し落ち着いて考える【禅定】ことが善であると教えるのです。

そして、その【禅定】も【忍辱】も、【智慧】から生れるのです。

 

※ しかし、ここで少し考える必要があります。

その善い行いを、私は出来るだろうか、ということです。

 

 今からもう十年も前のことです。何時ものように、庭で掃除をしていますと、大きな荷物を持って、夫婦がお寺の門から本堂の方へ入って来るのです。住職が応対に出ますと、「実は、私達夫婦は、大阪で働いておりましたが、この不況で会社は倒産、給金も貰えない状態で、職を失いました。私もこの歳で、今から他の仕事といってもすぐに見つかりません。そこで、息子が名古屋に居るものですから、わずかばかりのお金を持って大阪を出ました。しかし、新宮まで来ましたら、お金もなくなり、食事もできず、その上、泊る所さえない有り様です。どうか、一夜の宿を貸していただけませんでしょうか。」と言われるのです。  

 

「聞けば、気のどくなご様子、本堂の隅でも良ければ、お泊りなさい。それに、残り物でよければ、お腹もすいているでしょう、食事を用意させます。上がりなさい。」そういって、泊めてあげたのです。次の日の朝、食事をさせ、名古屋までの汽車貨を持たせ、「気を落とさんように、息子さんの所へ無事にたどり着けるように祈っています。」と、送り出したのです。

その時は、善い事をしたという思いで、心も喜びで満たされていました。

 

しかし、その思いは、二カ月程過ぎた時、無残にも打ち砕かられてしまったのです。

何時ものように、掃除をしていましたら、以前に見た事のある光景が急に目に飛び込んで来たのです。二人の姿を見た時、すぐにあの時の夫婦であることに気づきました。しかし、その夫婦は、以前の事を忘れたとでもいうのでしょうか、住職の応対に、以前と同じ口調で話し始めたのです。

 「私達夫婦は、大阪で働いて居りまして、………今夜の宿を貸していただきたいのです。」 開いた口が塞がらないとは、この様な事を言うのでしょうか、住職は、最後まで相手の話を聞いていました。

 

しばらく沈黙の後に、一渇「本当に仕事がなく、生活が苦しいのなら、市の福祉課へ行きなさい。住所を定めれば、生活保護も貰えます。この様な生活をしていてはいけません。」そう諭した後、泊めてはやれませんが、少しばかりのお金を渡して、「これで食事でもしなさい。」と返したのでした。しかし、それで終わったのではありません。

 

 それから又、三月程過ぎた頃、あの夫婦が、又お寺へ訪ねて来たのです。

門の入り口で、重い荷物を持ち替えながら、いかにも嬉しいという表情で、微笑んだのを、今もはっきり覚えています。その微笑には、(一度目は、食事と宿を得ることができた。二度目は叱られたけれど、食事のお金を貰うことが出来た。今回ここへくれば、叱られるかもしれないが、食事ぐらいは貰えるであろう……。)

 そんな思いが含まれていたのでしょうか、しかし、住職は、二人に「何時までも、その様にしていてはいけません。」と叱った後に帰るように言いわたしました。帰って行く足どりは重く、後ろ姿からも、彼らの悲しみが、十分伝わって来るのです。後ろから追いかけて、少しでも、お金をあげたいという衝動にかられる心を、やっとの思いで制止し何時までも、その後ろ姿を見送っていました。

 その時住職は、一人言のように「なまじ、何度も親切にしていたら、あの夫婦は一生立ちあがる心を忘れてしまう、彼らのためにはこの方がいい。」とつぶやいていました。

 

【叱る父、抱いてかかえる母の慈悲、かわる心と子は思うらん】

 

 困った人を助けたと喜んでいる心に自惚れはなかったか、助けたと思ったことが、はたして善い行いであっただろうか。

 例えば、貧しさに苦しんでいる人に大丈夫ですかと、優しく助けたとします。それだけを見ますと、善行のようですが、そうされる事で、人をあてにして、努力する心を止めてしまったとしたら、その行為は、その人のためになったと言えるのだろうか、あの時、後から追い掛けて、お金をやることはいかにも善い行いのようですが、

「働いて、がんばりなさい。」と叱る事により、生き方を思い直し、がんばる心を相手に与えるとしたら、どちらが善い行いか、考えさせられます。お金を与えることより、叱って、諭すことの方が、その人達の幸せを、本当に考えてあげている行為になるかもしれません。

 その出来事は、人間が自分の心で為す善は、末通った善でもなく、又本当の善が為せるかという疑問を、私になげかけたのでした。

 

人間が為せる善は、はたして、本当の善となりえるであろうか?

 

親鸞聖人は、人間の善を「雑毒の善、虚仮の行」と言われました。いくら良い料理でも、毒が混じっていたら誰が食べるでしょう。グリコ脅迫事件ではありませんが、「お菓子を好きなだけ食べて下さい。ただし青酸カリが入っています。」と言われて、食べる人が居るでしょうか。

人間の善は、人に親切にしても、心のどこかで、親切にしてやった。と、自惚れ、後日、相手が「ありがとう」と言わないと、「あの時の恩を忘れて………。」と罵ったりします。

 

『賽の河原』の話しに、

「幼き子供が、河原で、小石を積んでいると、鬼が出て来て、その積まれた小石の山を、

跡形もなく崩してしまう。泣きながら、子供は、一から小石を積み上げて行く、ようやく、積み上げた頃、又鬼が現われて来る。」とありますように、これが人間の姿を表していると、今、気づくのです。

 

〔小石とは〕 人間の小さな善行のこと

〔子供とは〕 私

〔鬼とは 〕 私の心の中の自惚れや、怒る心でしょう。

自分の積んだ善行を、自惚れたり、 罵しったりする心の鬼が崩していく、そして、跡には、何も残らない。

それは、自らの力でしていると思う善は、本当の善にならないということなのです。

 

●では、善を為してもだめなのか?●

決して善を為してもだめという事を言っているのではありません。善い事は、努めてしなければなりません。(衆善奉行)

しかし、おれがしてやったと、自からの力でしたと思う善では、本当の善にならないという事です。勿論、自惚れたり、怒ることもなく、善を為しえる人もいるでしょうが、私には、無理のように思えます。

 ●では、善は成しえないのか?●

 ここに来て、初めて阿弥陀如来の力で為さしめられたといただく(絶対他力)善というものに気づくのです。自分の力でしたと思う善では本当の善にならないという嘆きの中に、仏の願いによって為さしめられる、自惚れもない、本当の善が生まれて来るのです。

 その絶対他力の内に為さしめられる善こそ、私を幸福に導く善といえるでしょうし、その絶対他力(阿弥陀様)の慈光の中で、生かされている、そう感じて喜び生きること、それが本当の幸福なのです。

 

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